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Project Plan3を使ってみる

MS Planner and Project Plan3を試した。これはMicrosoft Projectとして長年知られていたものの同等物。 作りたかったのはPMBOKでいうところのWBS、アクティビティリスト、そしてプロジェクトスケジュールネットワーク図。 Project Planでは全て登録する内容が"Task"というカラム名になっているところは少し気になるものの、そこを無視するとすれば、WBSでいうWork(=成果物)は整理が可能なように思う。 WBSはあくまでWork(=公式の翻訳としては作業=そしてこれはいわゆる一般用語としての「作業」の結果の成果物)を管理するもので、その最下層にあるワークパッケージを完成させるために必要なアクティビティは別途アクティビティリストにした上でそこで作業期間や順序を規定する、というのが理屈という整理はできた。 が、それを正面に受け止めて、WBSとは別にアクティビティリストを作り、どの成果物に対するアクティビティなのかをうまくリンクさせながら管理する、というのは現実としてイメージが沸きづらいように思った。 ということで他の事例を書籍やネットでいくつか見てみたものの、結局WBSの最下層(ワークパッケージ)をアクティビティリストに分解するという関係性のためか、そのまま最下層の次の層(=見かけ上最下層ではなくなるということ)にアクティビティを記載するというのがどうも現実的なのだなと改めて理解した。 となると、Project PlanのPlanとしてまずはWBSを書いてそこにアクティビティを足すという流れ、そこからアクティビティに対して想定期間と依存関係を追加することでネットワーク図(ガントチャート)が表現できるという流れで進めると一旦は良さそうということでわかった。 ここで改めて、そもそもどのようにWBSを作るべきなのか確認して、今更長年の自分のWBSを作る時に持っていた違和感に対する回答を見つけた。 >同一の分割原則をWBSの全層にわたって適用することに何の問題もない。しかし、実務に携わる者の間では、同じWBSに2つないし3つの分割手法を同時に適用する混合手法がより実務的だという意見が多い。(中略) >WBSを構成する3つの手法のうちのどれが自分のプロジェクトに適しているだろうか。この疑問を解決する...

認められたいと思うこと

近いうちに、笑ゥせぇるすまんが実写ドラマ化されるらしい。 そんな話を見かけて、かつて見たアニメを思い出したものの、どうにも映像作品よりも読み物の方が好みのようで、せっかくなのでコミックス版を購入して読んでみた。種々色々な話はあれど、人の欲求は尽きない、一つ叶えば次が欲しくなる、そういうものだよなあと、感じさせられる代物だった。 最近考えていることがある。それは、承認欲求というものについて。 言われてみれば当たり前なのかもしれないことを書くようだけれど、人が持つ、認められたいという欲求は、もしかすると自分の存在意義に直結する根源的な話で、(衣食住などの基本が整った状態を前提にすると)存在意義を感じられないと自分自身の存在に疑問が生じてしまう危機的な状態になるから、そうならないために自然とあれこれ手を打って、認められたいという欲求を満たそうとしているのではないか、そんなことを思うようになった。[^1] さすが社会的な生き物というか、相対的な世界で生きているというか、そのために自分の価値を認めさせるという方法も取られるし、そうではなく、他の認められている価値を否定したり下げたりすることで結果として自分の価値を守るような方法も取られるように思う。 そして認めてもらう対象となる主体についても複数あって(もしかするとすべてが「自分自身」を認めるということに帰結するのかもしれないけれど、一旦それは置いておくと)自分を中心にした円心状に分かれているようなイメージを持っている。 ・自分自身 ・家族など非常に近しい存在 ・友人や職場など一定の近しい存在 ・社会(世間)や国などの遠い存在 自分自身について、自分はうまくやれているな、よくできているなと思いたい。 家族など近しい存在からもよくできているなと思われたい。 友人や職場などからもよくできているなと思われたい。 世間などのような遠い存在からもよくできているなと思われたい。 内側で十分に認められた感じが得られないと、外側の円へとその矛先が向いていって、認めてもらえないという気持ちを満たしにいく。 しかもこれは、一度認められたらOKなのではなくて、継続的にそう認められ続けたいという、まさに尽きることのない欲求なのだと思う。 欲求というところがこれを複雑にしていて、単に全肯定してもらえればそれでいいのかというと、それでは飽きてしまう。刺激...

雑誌というパケットに期待を込める

故あって雑誌を2冊ほど購読し始めた。 月毎に届くものと、四半期に一度届くものがある。 これに、なにか感じるものがあったので書き留めることにする。 ちなみに、頭の中のものを書き出しただけなので、今時点で答えはない。 いきなり大きな話をするようだけど、近頃は、情報量が非常に多いように思う。 自分の立場や状況から読むべきとされるものも含めると、読みたい、受け取りたい情報はとてつもない量で、多分、取捨選択をしなければ読んで理解していくよりも早く情報が増えて圧倒されてしまうのだよなと感じることがある。 そして、この取捨選択のフィルターをいい具合に用意することに疲れてきているのかもしれない、なんて思う。 その点、雑誌は良い。いつでも情報が入ってくるのではなくて決まった頻度だし、情報量は誌面に収まる程度、せいぜい100ページ弱、既にフィルターされていて読み始める前から終わりがある程度見えていて、そうすると、どれどれ、なんて気軽な気持ちで見て、30分もしないうちに終わって、知りたかったことの幾らかが満たされて満足な気持ちになる。 そして、もう一点気づいたこと。それが、物理的な存在感による圧力を持っているということ。 読み終えない限り、机なりどこかにそれは置かれ続ける。 ボリュームも前述の通り、大したことはない。 それがずっと居座っているものだから、それだったらさっさと済ませるか、と思って早々に読み終えたい気持ちになる。 そんなことをもやもやしながらずっと考えていて、これを自分のサイドワークや学習などの何かに応用できないか、と頭を捻っている。 英会話学習の一環で薦められた動画に影響を受けて、色々と仕事やプライベートでの忙しさに変化はあるけれども、1週間に1冊は何かしら本を読むようにしている。(まあ実際には厳密に1週1冊は難しいので52週で52冊、を目指している) それはあまり自分に無理がないらしく続いているのだけど、長く時間のかかるプロジェクトの類(例えばドメイン管理のサービスを移行するとか、メール関連のサービスに更新をかけるとか、資格取得に向けた学習をするとか)については、気づくと先延ばしにしてしまって数週間が経っている。 これを、雑誌のように、今週号ないし今月号はこれ、ということでNudge(ひじで小突くこと、要は行動を軽く促すこと)と言える程度の適度な圧を自分にかけてうまく前に...

すれ違いもまた人生

少し思うところがあったので、書き留めておくことにする。 仕事上の行き違いで、仕事でもプライベートでも仲良くしていた恩人との関係が冷え込んだ。 仕事での関係は(少なくとも表面上)これまで通りだが、かつてのような個人的なやりとりはその日を境になくなった。 事実関係が必要以上に正確に伝わらないように一部脚色を入れるが、その恩人が企画した仕事上の活動への参画を受けた後、別のより自分が期待していた(そして以前からやりたかった)領域の仕事の話が舞い込んできて、そこに手を挙げ参画することになった結果として、その恩人の仕事については辞去するに至った。 辞去するのを意図していたのであれば参画するべきでなかった、それは信頼の問題である、という形で糾弾されて、そのまま仲違いに至ってしまった。 正直なところ、これにはかなり驚いた。 というのも、自分の期待していた反応は、あくまで仕事の立場を抜け出して個人的な立場から、以前からやりたかったことが実現できそうで本当によかった、確かにこちらは残念だがまだ活動が本格化する前で良かった、おめでとう、そんなものであった。 自身の言い分としては、そもそも恩人からの話が上がったタイミングでは別段の話は上がっていなかったのであって、その話が上がる可能性も見えていなかった、仮に出てきたらそちらに取り組みたいと思っていたとして、それを理由に恩人の企画を断ることができただろうか。 逆に、新しい話が上がってきたところでは、恩人の企画への影響が最小限になるように努力を尽くしたのに、とそんな気持ちであった。 他方で、恩人の立場からすると、なんであれ一度引き受けたのであれば、ある程度までは引き受け続けるというのが責任というものではないのか、それにそう言った話があるなら事前に相談の一つをしてくれても良い仲ではないか、それなのに突然頼りにしていた折、いなくなるだなんて酷い仕打ちだ、と、そんなところなのかと思っている。 その上、数年前に同様のシチュエーションが同じ恩人との間で起きた際、自身は恩人の立場を慮って(自身としてこれは義理の問題と感じそうすべきと思って、と言った方がより正確か)、恩人の立場を優先することを決めたことがあった。 これは恩人の立場からはもしかすると取るに足らないことだったのかもしれないが、自身としてはその当時のこともあり、一度は義を尽くしたというのを目の前で...

常識と非常識の波を乗りこなす

少し時間が空いた。 これは、  バーンアウトとおもてなし の続き。 少し興味が出て、 Unreasonable Hospitality を読んでみた。 そしてある面期待通り、TED Talkで語っているような話というのはかなり部分的な抽出で、もう少し斟酌したい意図や経緯があるように思った。(以下書籍の内容の一部ネタバレあり、動画やWebサイトで有名な内容かもしれないけれど) そもそもの両親との関係やそれをきっかけとしたレストランでのサービスの仕方に対する自身の考え、そしてNew York Timesの三つ星レストランから続いて世界トップ50のレストランの50位、そこから徐々に順位を上げて、5位、4位、3位、と徐々にトップに向かっていく。 その向かっていく毎年の積み重ねの中で、トップ50のところはどこも、当たり前のことは当たり前にやっている、それを超える必要がある、と考えた上でのUnreasonableなHospitalityを提供するという話。 動画の中では、超高級レストランでお客様が望まれていた$2のホットドッグを提供した話や、飛行機が欠便になってビーチに行く予定がなくなってしまったお客さまのために砂やパラソル、小さなプールを用意してプライベートビーチ気分を味わってもらった話、雪を初めてみた家族のために食事後に雪で遊べるように車を手配した話などが例として上がっていたけれど、それは正直なところ、ドンドンと慣れてきた結果としての最終的な着地であって、より初期のUnreasonableさを追求するエピソードこそ、共感を生むような話だと思った。 予約しているお客様の名前を覚え、可能なら顔写真も探し、入店したらお客様が名乗らずとも認知してお出迎えする。 上着も預ける時に番号札のようなもので管理するのではなく、利用する席と紐づけたような配置でコートを管理して、帰るタイミングになった時にはそれを内部で連携して、自然にお渡しできるようにする。 シェフズテーブル(調理しているところが見える特等席)を用意すると、誰かがVIPでそれ以外はVIPに比べると重要ではない、ということを示す形になってしまうので、どの席からも調理の様子が見えるような構造にしたという話もあった。 [^1] 絶対にできないことではないけど、大変だから普通はやらない。 けど、それをやれば人と人とがつながって...

バーンアウトとおもてなし

近頃『なぜ私たちは燃え尽きてしまうのか』を読んだ。 バーンアウトないし燃え尽き症候群がかなり多義・曖昧に使われているという点を踏まえて、次のように記載されていた。 >バーンアウトに陥るのは、仕事に絶えずエネルギーを吸い取られていると感じるとき(消耗感)、顧客や学生を助けるべき相手としてではなく問題として見てしまうとき(シニシズムまたは冷笑主義)、自分の仕事が何も達成できていないと感じるとき(個人的達成感の低下) だというのだ。[^1] その上で、このようなバーンアウトに陥るのは、自身の尊厳と仕事とを一致して見てしまう文化を醸成している社会のせいであるという話だった。 さらにいうと、サービス業の比重が高まってきていることも相まって仕事において人間性や内面的なところも含めて評価されるようになり、その上、仕事・雇用が生活に直結する話につながるところから、仕事での評価=自身の尊厳という傾向になっていると話が書かれていた。 そんな書籍を読んでいるところで、たまたまTED Talkで次のようなものを観た。 Will Guidara: The secret ingredients of great hospitality | TED Talk https://www.ted.com/talks/will_guidara_the_secret_ingredients_of_great_hospitality?subtitle=en 2年ほど前の話で、『Unreasonable Hospitality』という書籍(邦訳は出ていないが、日本語訳すると「常軌を逸したおもてなし」とのこと)を出している著者のTalk。 内容としては、高級レストランで、普通ならやらない、しかしお客様が望んでいた、露店で売っているわずか2ドルのホットドッグをお客様のために提供したことをきっかけに、お客様一人ひとりに合わせたおもてなしを提供するという心が大事ではないか、というもの。 同様にサービス業の比重が高まってきている話を引き合いに出していて、今後「おもてなし経済」においてあえて「常軌を逸したおもてなし」をすることも良いのではないか、という締めくくりだった。 とき同じくしてこれらを見聞きし、これをやればお客様との最高の関係を築き成功できますよ、ということで紹介している、相手の期待値を超えようとするその試...

技術の螺旋とAngularの昔話

昨日は久しぶりに、オンサイトでのミートアップに参加してきた。内容としては、WASMに対する理解を深める内容のもの。[^1] 内容もさることながら、少し昔の話を思い返して、当時無駄だと思ったことがどこで活きてくるのかわからない(使い古された表現だけど"Connecting the dots"というやつ)、を感じる機会だったので振り返る。 人気であることだけが重要なわけではないという前提を置いた上で、今では、フロントエンドのフレームワークの人気といえばReact、それを使わない事情があるとするならVueというのが流れなのかなと個人的には認識している。 5年前はどうだったか。 あの頃はもう少し拮抗していて、そこにはAngular(AngularJS)がいた。そして当時の自分はそこにBetしていた。 もう少しだけ昔話を。 このAngular、触り始めた頃はAngularJSという名称だった。ただ、フレームワークの進化の過程で互換性のない変更を加えたいというコミュニティの方針が出てきていて、その結果として、元々あった(v1と呼ぶこともある)をAngularJS、それ以降のバージョンをAngularと呼ぶようになった。 自分が触っていたのはv1からv6の頃までだったかと思う。 ちょうど、Angularに新しいレンダリングやビルドのシステムとしてIvy(Apache Ivyかと思ったら違ったのでびっくりした)やBazelの導入がされてまた新しい風が吹いた頃に、自分の中のフロントエンド熱は冷めた。周りではReactとVueが多数だったこともあり、「勝ち馬」に乗り損ねた、というのも遠因にはなっていると思う。そして思った、ああ、投資する技術選定に失敗したな、と。 話を戻してミートアップ。 WASMの話をする中で、聞き覚えのある内容をいくつも耳にした。 「JITではなくAOTで高速化を......」 「Tree-shakingをマニュアルでやるなんて......」 このミートアップの参加者の基本プロファイルはRustの開発者。Rustの前はC, C++, Pythonあたりを触っていた人が多いという印象。その言語の文脈では、あまり耳馴染みのない言葉のように思う。[^2] でも、自分にはわかる。わかる。 Angularで散々見てきたからわかるんだ。AOTすることで読み込...