Skip to main content

すれ違いもまた人生

少し思うところがあったので、書き留めておくことにする。

仕事上の行き違いで、仕事でもプライベートでも仲良くしていた恩人との関係が冷え込んだ。

仕事での関係は(少なくとも表面上)これまで通りだが、かつてのような個人的なやりとりはその日を境になくなった。


事実関係が必要以上に正確に伝わらないように一部脚色を入れるが、その恩人が企画した仕事上の活動への参画を受けた後、別のより自分が期待していた(そして以前からやりたかった)領域の仕事の話が舞い込んできて、そこに手を挙げ参画することになった結果として、その恩人の仕事については辞去するに至った。

辞去するのを意図していたのであれば参画するべきでなかった、それは信頼の問題である、という形で糾弾されて、そのまま仲違いに至ってしまった。


正直なところ、これにはかなり驚いた。

というのも、自分の期待していた反応は、あくまで仕事の立場を抜け出して個人的な立場から、以前からやりたかったことが実現できそうで本当によかった、確かにこちらは残念だがまだ活動が本格化する前で良かった、おめでとう、そんなものであった。


自身の言い分としては、そもそも恩人からの話が上がったタイミングでは別段の話は上がっていなかったのであって、その話が上がる可能性も見えていなかった、仮に出てきたらそちらに取り組みたいと思っていたとして、それを理由に恩人の企画を断ることができただろうか。

逆に、新しい話が上がってきたところでは、恩人の企画への影響が最小限になるように努力を尽くしたのに、とそんな気持ちであった。


他方で、恩人の立場からすると、なんであれ一度引き受けたのであれば、ある程度までは引き受け続けるというのが責任というものではないのか、それにそう言った話があるなら事前に相談の一つをしてくれても良い仲ではないか、それなのに突然頼りにしていた折、いなくなるだなんて酷い仕打ちだ、と、そんなところなのかと思っている。


その上、数年前に同様のシチュエーションが同じ恩人との間で起きた際、自身は恩人の立場を慮って(自身としてこれは義理の問題と感じそうすべきと思って、と言った方がより正確か)、恩人の立場を優先することを決めたことがあった。

これは恩人の立場からはもしかすると取るに足らないことだったのかもしれないが、自身としてはその当時のこともあり、一度は義を尽くしたというのを目の前で見ているわけだし理解してもらえるだろう、と思ってしまっていた。



この時ふと、何年も昔の話を思い出した。

それは、友人カップル(現在は夫妻となった)がまだ関係としては浅い状態にあった頃、どうにかこれを応援したいと思い、いわゆるダブルデートを提案したことがあった。

私自身は友人カップルとも私とも共通の友人の一人を呼び、そして出かけようと、そうすればきっと自然と楽しみやすいと、そう思っていた。

ただ、その企画が1.5か月後だったのだけれど、それから1か月の間に、私自身がその共通の友人との仲を深めるに至る出来事にあい、恋仲になってしまった。

すると、当日の反応は当然ながら「なるほど、私たちのため、と言っていたが、それは単に口実で、自分がデートしたかっただけなのだな」と言った反応を受けてしまったことがあった。


否定しても、論駁の余地がない。もうそんな話を聞きたいとは思われていない。少なくとも他人からは。

この時に感じた経験と同じだな、と思った。



ここから得られた教訓は、自身が最善を尽くしても、それが相手に伝わるかどうかは関係ないということ。

そしてきっとこれは自分自身も同じで、非常に不快な思いをした、なんて裏切りだ、と思った過去の経験も実は違ったビューで見たらやむを得ない、落ち度のない話だったのかもしれない。それでも、その時点ではそんな話を考えることはなかなか難しい。そういうものなのだと思う。


だから、すれ違いにならないように先を見通す努力をすることと共に、伝える努力をしても伝わらない時はそこに拘泥するのはやめて、相手にできるだけ砂をかけない形で立ち去るのが良いのだと考えている。

そしたらある時、話を聞く準備ができて、ビューが変わって関係性が次のステップに進めるかもしれない。(もちろん、そんな時は一生来ないかもしれないけれど)

最善の手が最善の結果を生むわけではない、というのはこのことか。なんであれ、親しい間柄の関係が冷え込むのは沁みるが、そういうこともある、と思って過ごせるようになっているだけ、もうすっかりと、諦めるということを知った大人になったということだ。そしておかげで生きやすい。