Skip to main content

認められたいと思うこと

近いうちに、笑ゥせぇるすまんが実写ドラマ化されるらしい。

そんな話を見かけて、かつて見たアニメを思い出したものの、どうにも映像作品よりも読み物の方が好みのようで、せっかくなのでコミックス版を購入して読んでみた。種々色々な話はあれど、人の欲求は尽きない、一つ叶えば次が欲しくなる、そういうものだよなあと、感じさせられる代物だった。


最近考えていることがある。それは、承認欲求というものについて。

言われてみれば当たり前なのかもしれないことを書くようだけれど、人が持つ、認められたいという欲求は、もしかすると自分の存在意義に直結する根源的な話で、(衣食住などの基本が整った状態を前提にすると)存在意義を感じられないと自分自身の存在に疑問が生じてしまう危機的な状態になるから、そうならないために自然とあれこれ手を打って、認められたいという欲求を満たそうとしているのではないか、そんなことを思うようになった。[^1]


さすが社会的な生き物というか、相対的な世界で生きているというか、そのために自分の価値を認めさせるという方法も取られるし、そうではなく、他の認められている価値を否定したり下げたりすることで結果として自分の価値を守るような方法も取られるように思う。


そして認めてもらう対象となる主体についても複数あって(もしかするとすべてが「自分自身」を認めるということに帰結するのかもしれないけれど、一旦それは置いておくと)自分を中心にした円心状に分かれているようなイメージを持っている。


・自分自身

・家族など非常に近しい存在

・友人や職場など一定の近しい存在

・社会(世間)や国などの遠い存在


自分自身について、自分はうまくやれているな、よくできているなと思いたい。

家族など近しい存在からもよくできているなと思われたい。

友人や職場などからもよくできているなと思われたい。

世間などのような遠い存在からもよくできているなと思われたい。


内側で十分に認められた感じが得られないと、外側の円へとその矛先が向いていって、認めてもらえないという気持ちを満たしにいく。


しかもこれは、一度認められたらOKなのではなくて、継続的にそう認められ続けたいという、まさに尽きることのない欲求なのだと思う。


欲求というところがこれを複雑にしていて、単に全肯定してもらえればそれでいいのかというと、それでは飽きてしまう。刺激がなくなって満たされたように思わなくなってしまう。全ての人のことを全肯定している人から、自分の全てを肯定されても、相対的に考えてしまってそれでは認められていないのと同じと思ってしまう。

だから、自分だけが成したなにかについてなどに認めてほしいし、なんならいつも認めてもらえるわけではなく、時に認めてもらえるようなそんな刺激的な方法の方がこの欲求は満たしやすいのではないかと、そんなことを思う。


そのような考え方を前提にすると、その欲求を満たしてくれる源泉が円心の中心に近いほど、コントロールが効きやすく、言い換えると欲求を満たすベース部分を担ってくれる一方で、毎回同じような結果に繋がるので刺激に乏しくなりがちで欲求を満たし続けるのは難しいのかもしれない。

(まあ、このベース部分が整っていないとそもそも常に自分の存在意義に危機感を覚えて不安定な人になってしまうようには思うので、結局どちらも大事、という話になるが)


町田康の『人生パンク道場』の次の話は、上のような内容に通ずるように思えて好きなエピソードのひとつ。


>「自分がなにかをすることによって自分の外にあるなにかの様子が変わる様を見たい、 見たくて見たくてたまらない、という人間の習性です。  どういうことかと言いますと、例えば照明のスイッチをオンにすると照明が 灯ります。オフにすると消えます。人間はこれが嬉しいのです。  ここで重要なのは、スイッチを押したのが自分であることです。自分がスイッチを押した結果、あかりが灯って周囲が明るくなる、これが大事なのです。」[^2]


自分が他者に影響を与えたということを見るに通じて承認欲求を満たしたい、要するにそういうことなのだと思う。とはいえ、言ったら全てが思い通りになるようでは逆に飽きてしまう・面白く無くなってしまうわけで、だからこそ、実際に影響を受けた時は素直に「あなたのおかげで私はこんな影響を受けた」と率直に伝えることが、お互いの影響を認め合って、欲求を健全に満たすことに繋がるとも言える。


友人の言動、職場の同僚の行動、SNS上での人の振る舞い、そういったものの背景を、認められたい気持ちというレンズを通してみると、もしかしたらわかった気になれるかもしれない。

自分自身の行動であれば、なにが自分を突き動かしているのかを見出すヒントになりそうだ。


この認められたい欲求は、冒頭のブラックユーモアな漫画の話のように、尽きることのない、満たされれば次が欲しくなる上、多くの人誰もが持っているもの。

そう考えて、生きやすく過ごすためにもその源泉となるものを複数確保できるように心がけて過ごして、また身近な人のそういった欲求を可能な範囲で満たせるように過ごしていくと、心穏やかに生きやすい。そんなことを思ったのだった。おしまい。



[^1]: 書きたかった本題からは逸れるが、男性性については、これに加えて生存本能なのかなんなのか、「性的欲求」という軸が別であるように思っている。女性性についても人によっては同様のものがあるかもしれないが、誤解を恐れずに記せば、どちらかといえばその行為を通じて承認欲求を満たす傾向にあるように感じるので、基本的に男性性に限定して考えてよさそうな感覚。この点はもう少し理解を深める必要がありそう。

[^2]: 町田 康 (2019), 人生パンク道場, 角川文庫, loc.1659