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Showing posts from 2024

すれ違いもまた人生

少し思うところがあったので、書き留めておくことにする。 仕事上の行き違いで、仕事でもプライベートでも仲良くしていた恩人との関係が冷え込んだ。 仕事での関係は(少なくとも表面上)これまで通りだが、かつてのような個人的なやりとりはその日を境になくなった。 事実関係が必要以上に正確に伝わらないように一部脚色を入れるが、その恩人が企画した仕事上の活動への参画を受けた後、別のより自分が期待していた(そして以前からやりたかった)領域の仕事の話が舞い込んできて、そこに手を挙げ参画することになった結果として、その恩人の仕事については辞去するに至った。 辞去するのを意図していたのであれば参画するべきでなかった、それは信頼の問題である、という形で糾弾されて、そのまま仲違いに至ってしまった。 正直なところ、これにはかなり驚いた。 というのも、自分の期待していた反応は、あくまで仕事の立場を抜け出して個人的な立場から、以前からやりたかったことが実現できそうで本当によかった、確かにこちらは残念だがまだ活動が本格化する前で良かった、おめでとう、そんなものであった。 自身の言い分としては、そもそも恩人からの話が上がったタイミングでは別段の話は上がっていなかったのであって、その話が上がる可能性も見えていなかった、仮に出てきたらそちらに取り組みたいと思っていたとして、それを理由に恩人の企画を断ることができただろうか。 逆に、新しい話が上がってきたところでは、恩人の企画への影響が最小限になるように努力を尽くしたのに、とそんな気持ちであった。 他方で、恩人の立場からすると、なんであれ一度引き受けたのであれば、ある程度までは引き受け続けるというのが責任というものではないのか、それにそう言った話があるなら事前に相談の一つをしてくれても良い仲ではないか、それなのに突然頼りにしていた折、いなくなるだなんて酷い仕打ちだ、と、そんなところなのかと思っている。 その上、数年前に同様のシチュエーションが同じ恩人との間で起きた際、自身は恩人の立場を慮って(自身としてこれは義理の問題と感じそうすべきと思って、と言った方がより正確か)、恩人の立場を優先することを決めたことがあった。 これは恩人の立場からはもしかすると取るに足らないことだったのかもしれないが、自身としてはその当時のこともあり、一度は義を尽くしたというのを目の前で...

常識と非常識の波を乗りこなす

少し時間が空いた。 これは、  バーンアウトとおもてなし の続き。 少し興味が出て、 Unreasonable Hospitality を読んでみた。 そしてある面期待通り、TED Talkで語っているような話というのはかなり部分的な抽出で、もう少し斟酌したい意図や経緯があるように思った。(以下書籍の内容の一部ネタバレあり、動画やWebサイトで有名な内容かもしれないけれど) そもそもの両親との関係やそれをきっかけとしたレストランでのサービスの仕方に対する自身の考え、そしてNew York Timesの三つ星レストランから続いて世界トップ50のレストランの50位、そこから徐々に順位を上げて、5位、4位、3位、と徐々にトップに向かっていく。 その向かっていく毎年の積み重ねの中で、トップ50のところはどこも、当たり前のことは当たり前にやっている、それを超える必要がある、と考えた上でのUnreasonableなHospitalityを提供するという話。 動画の中では、超高級レストランでお客様が望まれていた$2のホットドッグを提供した話や、飛行機が欠便になってビーチに行く予定がなくなってしまったお客さまのために砂やパラソル、小さなプールを用意してプライベートビーチ気分を味わってもらった話、雪を初めてみた家族のために食事後に雪で遊べるように車を手配した話などが例として上がっていたけれど、それは正直なところ、ドンドンと慣れてきた結果としての最終的な着地であって、より初期のUnreasonableさを追求するエピソードこそ、共感を生むような話だと思った。 予約しているお客様の名前を覚え、可能なら顔写真も探し、入店したらお客様が名乗らずとも認知してお出迎えする。 上着も預ける時に番号札のようなもので管理するのではなく、利用する席と紐づけたような配置でコートを管理して、帰るタイミングになった時にはそれを内部で連携して、自然にお渡しできるようにする。 シェフズテーブル(調理しているところが見える特等席)を用意すると、誰かがVIPでそれ以外はVIPに比べると重要ではない、ということを示す形になってしまうので、どの席からも調理の様子が見えるような構造にしたという話もあった。 [^1] 絶対にできないことではないけど、大変だから普通はやらない。 けど、それをやれば人と人とがつながって...

バーンアウトとおもてなし

近頃『なぜ私たちは燃え尽きてしまうのか』を読んだ。 バーンアウトないし燃え尽き症候群がかなり多義・曖昧に使われているという点を踏まえて、次のように記載されていた。 >バーンアウトに陥るのは、仕事に絶えずエネルギーを吸い取られていると感じるとき(消耗感)、顧客や学生を助けるべき相手としてではなく問題として見てしまうとき(シニシズムまたは冷笑主義)、自分の仕事が何も達成できていないと感じるとき(個人的達成感の低下) だというのだ。[^1] その上で、このようなバーンアウトに陥るのは、自身の尊厳と仕事とを一致して見てしまう文化を醸成している社会のせいであるという話だった。 さらにいうと、サービス業の比重が高まってきていることも相まって仕事において人間性や内面的なところも含めて評価されるようになり、その上、仕事・雇用が生活に直結する話につながるところから、仕事での評価=自身の尊厳という傾向になっていると話が書かれていた。 そんな書籍を読んでいるところで、たまたまTED Talkで次のようなものを観た。 Will Guidara: The secret ingredients of great hospitality | TED Talk https://www.ted.com/talks/will_guidara_the_secret_ingredients_of_great_hospitality?subtitle=en 2年ほど前の話で、『Unreasonable Hospitality』という書籍(邦訳は出ていないが、日本語訳すると「常軌を逸したおもてなし」とのこと)を出している著者のTalk。 内容としては、高級レストランで、普通ならやらない、しかしお客様が望んでいた、露店で売っているわずか2ドルのホットドッグをお客様のために提供したことをきっかけに、お客様一人ひとりに合わせたおもてなしを提供するという心が大事ではないか、というもの。 同様にサービス業の比重が高まってきている話を引き合いに出していて、今後「おもてなし経済」においてあえて「常軌を逸したおもてなし」をすることも良いのではないか、という締めくくりだった。 とき同じくしてこれらを見聞きし、これをやればお客様との最高の関係を築き成功できますよ、ということで紹介している、相手の期待値を超えようとするその試...

技術の螺旋とAngularの昔話

昨日は久しぶりに、オンサイトでのミートアップに参加してきた。内容としては、WASMに対する理解を深める内容のもの。[^1] 内容もさることながら、少し昔の話を思い返して、当時無駄だと思ったことがどこで活きてくるのかわからない(使い古された表現だけど"Connecting the dots"というやつ)、を感じる機会だったので振り返る。 人気であることだけが重要なわけではないという前提を置いた上で、今では、フロントエンドのフレームワークの人気といえばReact、それを使わない事情があるとするならVueというのが流れなのかなと個人的には認識している。 5年前はどうだったか。 あの頃はもう少し拮抗していて、そこにはAngular(AngularJS)がいた。そして当時の自分はそこにBetしていた。 もう少しだけ昔話を。 このAngular、触り始めた頃はAngularJSという名称だった。ただ、フレームワークの進化の過程で互換性のない変更を加えたいというコミュニティの方針が出てきていて、その結果として、元々あった(v1と呼ぶこともある)をAngularJS、それ以降のバージョンをAngularと呼ぶようになった。 自分が触っていたのはv1からv6の頃までだったかと思う。 ちょうど、Angularに新しいレンダリングやビルドのシステムとしてIvy(Apache Ivyかと思ったら違ったのでびっくりした)やBazelの導入がされてまた新しい風が吹いた頃に、自分の中のフロントエンド熱は冷めた。周りではReactとVueが多数だったこともあり、「勝ち馬」に乗り損ねた、というのも遠因にはなっていると思う。そして思った、ああ、投資する技術選定に失敗したな、と。 話を戻してミートアップ。 WASMの話をする中で、聞き覚えのある内容をいくつも耳にした。 「JITではなくAOTで高速化を......」 「Tree-shakingをマニュアルでやるなんて......」 このミートアップの参加者の基本プロファイルはRustの開発者。Rustの前はC, C++, Pythonあたりを触っていた人が多いという印象。その言語の文脈では、あまり耳馴染みのない言葉のように思う。[^2] でも、自分にはわかる。わかる。 Angularで散々見てきたからわかるんだ。AOTすることで読み込...

偏狂的な愛と持たざる者

 なにかに偏狂的に愛を持っている人っていいですよね。 つい最近読んだ本で羽田圭介が言っていた。 自分もそう思う。でも自分にはそういう偏狂的な愛はあるんだろうか。そんなことを考えていた。 近頃、とても仕事が忙しい。この忙しさにはいくつかの要因がある。 チームレベルとしては、まずそもそも、仕事の量が多い。そして、それをできる人が限られている。 自分の話としては、他業務も並行していることで物理的に避けている時間が短い。その上、今のチームで求められているスキルに対しての成熟度が低い。とても。 一番最後の部分は、自分の問題なのでキャッチアップのために時間を捻出して、少しずつでもスキルを獲得しようとしている。 とはいえ他業務が忙しいので時間が取れずその結果として……と少し悪循環に陥っている。 そんな様子がしばらく続いているので、自己肯定感が低下している状況にある。 これを見ると少し面白い。 iPhoneの機能で自分のムードを記録しているのだけど、仕事が始まると週の後半に向けて徐々にムードが悪くなっている。 そんな折、チームの同僚と夕食をしながら会話していた。 その彼はチームの中で飛び抜けたパフォーマンスを出していて、言ってしまえば彼一人で持っているようなものでもある。 そんな彼の負担を少しでも減らしたい、そして自分も貢献したい、という思いもあって、色々と雑談をしていた。 すると、どうやら彼は、仕事でしている勉強とは別に機械学習の勉強をしているとのことだった。 それはもちろん、役に立つ可能性があるからというのもそうだけれど、楽しいからでもある、と。 いいPCをゲーム用に買ったので、ゲームするか機械学習をしている、と。 その時にハッ、と気付いてしまった。 自分の場合、ゲームとそのような学習は並列ではなくて別の枠。学習を十分にして楽しかったからゲームはいいや、とはならない。 そこで、自分は「ソフトウェアエンジニアリングが好き」なのではなくて、「ソフトウェアエンジニアリングができる自分が好き」なんだと気付いてしまった。 ソフトウェアエンジニアリングに対して自分は偏狂的な愛はない。だから嬉々として週末をそこに費やしたいというよりは、もう少しわかる状態で貢献できるようになりたい、そのためにはこのあたりまで「やらなければ」という気持ちになるのだな、と。 偏狂的な愛には勝てない。勝とう...