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偏狂的な愛と持たざる者

 なにかに偏狂的に愛を持っている人っていいですよね。

つい最近読んだ本で羽田圭介が言っていた。

自分もそう思う。でも自分にはそういう偏狂的な愛はあるんだろうか。そんなことを考えていた。

近頃、とても仕事が忙しい。この忙しさにはいくつかの要因がある。
チームレベルとしては、まずそもそも、仕事の量が多い。そして、それをできる人が限られている。
自分の話としては、他業務も並行していることで物理的に避けている時間が短い。その上、今のチームで求められているスキルに対しての成熟度が低い。とても。

一番最後の部分は、自分の問題なのでキャッチアップのために時間を捻出して、少しずつでもスキルを獲得しようとしている。
とはいえ他業務が忙しいので時間が取れずその結果として……と少し悪循環に陥っている。
そんな様子がしばらく続いているので、自己肯定感が低下している状況にある。



これを見ると少し面白い。
iPhoneの機能で自分のムードを記録しているのだけど、仕事が始まると週の後半に向けて徐々にムードが悪くなっている。

そんな折、チームの同僚と夕食をしながら会話していた。
その彼はチームの中で飛び抜けたパフォーマンスを出していて、言ってしまえば彼一人で持っているようなものでもある。
そんな彼の負担を少しでも減らしたい、そして自分も貢献したい、という思いもあって、色々と雑談をしていた。

すると、どうやら彼は、仕事でしている勉強とは別に機械学習の勉強をしているとのことだった。
それはもちろん、役に立つ可能性があるからというのもそうだけれど、楽しいからでもある、と。
いいPCをゲーム用に買ったので、ゲームするか機械学習をしている、と。

その時にハッ、と気付いてしまった。
自分の場合、ゲームとそのような学習は並列ではなくて別の枠。学習を十分にして楽しかったからゲームはいいや、とはならない。
そこで、自分は「ソフトウェアエンジニアリングが好き」なのではなくて、「ソフトウェアエンジニアリングができる自分が好き」なんだと気付いてしまった。

ソフトウェアエンジニアリングに対して自分は偏狂的な愛はない。だから嬉々として週末をそこに費やしたいというよりは、もう少しわかる状態で貢献できるようになりたい、そのためにはこのあたりまで「やらなければ」という気持ちになるのだな、と。

偏狂的な愛には勝てない。勝とうとすること自体がおこがましいのだと思う。
そうともすると、そこに愛はない、けれど貰ったお金に相当する分ないしそれ以上をPayできるようなパフォーマンスを出せるレベルをどうやったら維持できるのか、そのために自分は何をするのか、そういう考えに切り替えるべきなのだろうなと、突然「わかってしまった」。

そこに愛を持ちたいと思っていたし憧れている部分もあったようだから、気付いたその事実には少しばかり悲しみも覚えるけれど、それを前提に生き方(というといささか大袈裟だけど)を見直す必要がありそうだ。

おしまい。