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Showing posts from 2023

面白いと思えるところまでやる

今日は飲み会だった。旧知の中のメンバーと。その中で一人、飛び抜けてかっこいいことをしているメンバーがいて、そして、その彼は誰よりも人一倍長い時間、同じ対象に対して情熱と時間を注いでいた。 義務感というよりは、今しかない、今やりたい、というような気持ちから。 自分にも楽しいことはある。例えば今、猛烈に学びたいと思っている言語やミドルウェアがある。でも、それも楽しいけど、もっと手軽に楽しめるものがある。例えばゲームとか。 何かを学ぶことは実際にできるとすごく楽しいのだけどその道中が少し苦しい。だから、最初から楽しくて、なにより苦しさが少ない方を選んでしまう。一方で、もっと長い目で見たら……という気持ちもあるから、そういう自分に対してネガティブな気持ちも出てきてしまう。 どうやっているの?と聞いた。 「最初は苦しかった、特に、始めるまでにはすごくハードルをいつも感じた」と話していた。 「ただ、エディターを上げた状態で、いつでも始められる状態で構えていたら、自然と段々、エディター上がっているしやるか、じゃないけど始めることのハードルが下がってきた。やりながら続けていたら楽しくなってきて、今は楽しくて仕方がないからもっともっとやりたい、そういう気持ち。」と。 つい義務感で進めてしまう部分があるから、その義務を果たすと、報酬としてやはりより安易な快楽であるゲームに流れ着く。その流れを切るのは紛れもなく自分で、楽しいと思えるところまでやる、そういう努力をする必要があるんだよなあと思った。 自分は、Joel Spolskyの言うJava SchoolのKids*1で、その事実を今仕事の中での自分のロール転換にあたってひしひしと感じている。 変わっていく中で新しく学ぶことに喜びを見出しつつも、やはり苦しくて、だからこそ、別の方面へと逃げてしまうところがあるなあというのを俯瞰しながら見て感じる。 「お前がつまんないのはお前のせいだ」って有名なセリフ*2もここぞとばかりに頭に浮かぶ。自分を楽しくするかつまらなくするか、それが今か先かも含めて、それは自分がどうするかなのだなあと。 色々と大変なこともあって万全ではないのだけど、だとしても射撃しつつ前進*3、のスタンスを崩さずにいけるといいなと思う。 註1 好きな著者にこうもストレートに言われて自覚もあるところだと気にならないわけはない、もち...

期待、諦め、割り切り

会社の友人らと食事をした。お互い色々なライフステージで、色々なことがあって。 ある一人が、昇進をするかどうかの話をしていた。 実力としてはなんとかそのレベル、多分上がれば仕事は辛くなるし、周囲の期待に応えられなくなることが多くなるだろう。 期待に応えるためには、仕事に費やす時間を増やす、言い換えれば、家庭や個人的な何かに使う時間を減らす必要があるだろう。 としたときに、上がるのか、それとも、もう少し家庭環境が落ち着いてからにするのか。 その場で彼が出していた答えは、上がる。もう、ある程度自分の中で踏ん切りがついていて、周りからどう思われても別に構わない、なんなら上がったけどその分のパフォーマンスが出ない、と思われるならそれはそれで構わない、評価してもらえる環境にいる時に、上がりやすい環境にいる時に上がるのが真っ当なんじゃないか、という考え方。 他にも昇進後のランクでパフォーマンスが出ていない人もいるわけで、無理に頑張りすぎないで、もらえるものをもらえばよい、周りの評価は気にならない、という話をしていた。 強いなあと思った。 自分は、上がらない方が幸せなんじゃないかと話した。それは、その職位で当然に期待されるレベルのパフォーマンスを自分が発揮できていないとき、きっと辛いんじゃないかと思うと思ったから。 かっこいい自分を、言い換えれば、自己肯定感を、自尊心を、損なうような状況になってしまうのでは?と思ったから。 また頑張れる時になったら頑張ればいい、そうやって割り切れているんだなあと。 一方で、そういうのを真に受けて自分にも適用していいのかはよくわからない。 自分のことを思い返すと、つい易きに流れる自分を律して、頑張れていない自分を頑張らせる、頑張れなくするようなものは周りから無くして頑張る、そういうところがある。 例えば、近頃は、家からゲームをなくした。好きだけど、あるといつまでもやってしまうから。いつまでもやってしまって、それがなかったら頑張れたことをできなくなってしまうから。その結果、自分を少し嫌いになってしまうから。 それに、何かを学んだ時に感じる喜びのようなものはわくわくする。ゲームと違って即効性はないけど、じんわりと気持ちよくなる。そういう喜びを得にくくなってしまうと思っているから。 そうやって話を聞くと、それはやり過ぎなのかなあと思ったりする。 GPTを始...

漠然とした不安の吐露

近頃、IT系のエンジニアの界隈ではChatGPTが流行っている。 無償で使えるGPT-3.5ベースのものと、課金をすると使えるGPT-4ベースのもの、それぞれ試して色々と壁打ちしてみたり、仕事に部分的に取り入れたりしている感じ。 最近だと、プロンプトエンジニアリングとか、プロンプトデザインって言われる、よりうまく活用するための方法を模索している人も多い。例えば次の記事とか。 ChatGPTの精度を上げる、あらゆる質問の最後に置く「命令」 優秀な壁打ち相手を作る、「チャットAI力」の高め方 クリエイターに出会ったり、もっとファンになったり、noteで創作をつづけたくなるようなイベントを開催する「noteイベント logmi.jp ChatGPTのプロンプトデザインって何だ? ChatGPTのプロンプトデザインって何だ? soysoftware.sakura.ne.jp 要は、取り込んだネット上の記事という膨大な経験からそれっぽい答えを返してくれるということで、そのドメインを如何に絞り込んでほしい回答に近づけるかという話。 Programmableにするために頑張って変数定義している感じといっても良いかもしれない。 このあたりが出てきて、本当に性もない話だけれど、漠然と自分の現在していることに対する無駄感や、将来に対するぼんやり漠然とした不安みたいなものが取り巻いてしまっていて少しモチベーションが下がり気味になっているのが悲しい。 例えば職場で使用しているAWSやTerraformの技術、日々変わるこれを学習してもHowの部分は問題に落とし込めたら学んでいる意味がないのでは、とかそういう。 実際には、その問題に落とし込めるレベルまでの理解がやはり必要だし、あるいは、微細な部分まで考慮しきれるだけ深く学びきれたらそれはそれで多分当面はAIに代替されないのだけど。 そういうことが雰囲気としてはわかっていつつも、この勉強意味あるんかな、この時間の過ごし方意味あるんかな、なんてそんなことを考えてうだうだとしてしまっている。 GPT-Xを作る側に回るぞ、と勉強している人、積極的にこれらを使って生産性n倍ですわ!といっている人、そういう人たちに比べて自分の市場価値が相対的に低くなっているのではないかという焦りと不安。まあ、最大の敵は自分自身というのはよく言う話なので、これに懲りず興...