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期待、諦め、割り切り

会社の友人らと食事をした。お互い色々なライフステージで、色々なことがあって。

ある一人が、昇進をするかどうかの話をしていた。
実力としてはなんとかそのレベル、多分上がれば仕事は辛くなるし、周囲の期待に応えられなくなることが多くなるだろう。
期待に応えるためには、仕事に費やす時間を増やす、言い換えれば、家庭や個人的な何かに使う時間を減らす必要があるだろう。
としたときに、上がるのか、それとも、もう少し家庭環境が落ち着いてからにするのか。

その場で彼が出していた答えは、上がる。もう、ある程度自分の中で踏ん切りがついていて、周りからどう思われても別に構わない、なんなら上がったけどその分のパフォーマンスが出ない、と思われるならそれはそれで構わない、評価してもらえる環境にいる時に、上がりやすい環境にいる時に上がるのが真っ当なんじゃないか、という考え方。
他にも昇進後のランクでパフォーマンスが出ていない人もいるわけで、無理に頑張りすぎないで、もらえるものをもらえばよい、周りの評価は気にならない、という話をしていた。

強いなあと思った。
自分は、上がらない方が幸せなんじゃないかと話した。それは、その職位で当然に期待されるレベルのパフォーマンスを自分が発揮できていないとき、きっと辛いんじゃないかと思うと思ったから。
かっこいい自分を、言い換えれば、自己肯定感を、自尊心を、損なうような状況になってしまうのでは?と思ったから。

また頑張れる時になったら頑張ればいい、そうやって割り切れているんだなあと。

一方で、そういうのを真に受けて自分にも適用していいのかはよくわからない。
自分のことを思い返すと、つい易きに流れる自分を律して、頑張れていない自分を頑張らせる、頑張れなくするようなものは周りから無くして頑張る、そういうところがある。
例えば、近頃は、家からゲームをなくした。好きだけど、あるといつまでもやってしまうから。いつまでもやってしまって、それがなかったら頑張れたことをできなくなってしまうから。その結果、自分を少し嫌いになってしまうから。
それに、何かを学んだ時に感じる喜びのようなものはわくわくする。ゲームと違って即効性はないけど、じんわりと気持ちよくなる。そういう喜びを得にくくなってしまうと思っているから。

そうやって話を聞くと、それはやり過ぎなのかなあと思ったりする。
GPTを始めとして、色々な新しい流れがある中で、今学んでも無駄になるようなことも多い中で、自分を律して、やりたいと思うことの一部を削り出してする、その努力に意味があるのか、どうなんだろうね。
手の抜き方が上手だなあと、人の話を聞くと思う。
自分はどう生きていくといいんだろうなあ、と少しだけ迷子。

Twitterみたいに短い散文ではなくて、こういうのが書きたかった。
まとめはなし。推敲もなし。おしまい。