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エッセイと高層ビルと

今日好きなエッセイにあった。

いや、正確には、読んだ瞬間に心が濡れる感覚というか、「ヒュッ」ってなるというか、そういうツイートを読んで、それから気付いたらその人のエッセイぽちぽちと読んでいた。

昔はそういうものに触れることが多かった気がしていたのだけど、ここ数年ちょっとみなくなったというか、それよりも目立つものが増えたような、なんとなくそんな気がしてる。

自分も一時期ずっと続けていたブログを、あるとき、なぜか急に、「こんなもの誰も読まないのになぜ書いているのか」などと、元の書いていた目的は人に読んでもらうためではないのに、そんなことを思って長年続けていたブログを辞めてしまった。

今ではまた細々書いているけれどやはり技術的なまとめのようなものが中心になっているし、なんとなく気恥ずかしさみたいなものがあったり、書きたい文章がうまくまとまった形で書けなくて、書きかけのドラフトがしばらく転がり、そして時間が経ち、しばらくしてから発見し、「なんだこれは」ということで少し居心地の悪い気持ちで消す。

分かりやすい文章、面白い文章が書きたくて、それになんだか少し賢い気がして、ほんの一時期マークダウンでブログを書いていたことがある。
これがまた、書けない。書けない。本当に、書けない。

マークダウンはその作り上、章・節・項じゃないけれど、ツリーというか階層構造になっている。だから、思いついたままに書いてしまっては章レベルで書いている話が釣り合わなかったりして、読後感が悪いどころか最後まで読まれさえしないかもしれない。

そうすると、書きたいことをほわ〜〜〜っと頭に浮かべて、箇条書きして、ストーリーにして、並び替えや構成を変えて、うまく並ばないところには要素を足して、なんてことをしていた。

するとあら不思議。読みやすい文章の出来上がり。でも、書いていてぜーんぜん楽しくなかった。
なんだこれは、仕事か?!という気持ちになってしまった。

そういう意味で、エッセイをところどころで仕事としてしている作家を見るとただ驚く。例えば村井さんとか。

推敲すると、分かりづらいかな、構造化しようかな?とか思えてきて、構造化するとなんというか見る間にビルが建築されていくかの如く、平地、背の低いぼこぼこした家々が並んでいる風景が高層ビルに変わっていくようなそんな感覚で、それを突き詰めれば元の風景とはまるで違う仕上がりになるし、さりとて半端に仕上げればビルとして立った部分だけがとても目立つ。

エッセイって書き切るのが難しいかもしれないなあ。
思い浮かんだまま、タイトルも書き出したときにそのままつけるのが心に従っているのだろうけど、結局今書いているこれも、途中で思い浮かんだフレーズが自分の中に残ってタイトルになっていった。

それでも、自分に素直になって書いたものは、やっぱりどこか輝いているような、そんな感じがして気分がいい。書くことが目的、これでいいのだ。